昭和51年9月1日 朝の御理解 (末永信太郎)
御理解第21節
信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。
信心なければ、世界が闇、と。信心とは、光だということが言えます。だから、信心をさせてもらいよります、拝みよりますと言うても、心に光が頂け、しかも、その光が段々大きな光になって行くという信心でなからなければ、それはもう、信心ではないということです。
信心というのは、だから、信心は光です。ね。私は昨夜休ませて頂いて、すぐ頂いたことでしたけれども。三井教会の総代さんに、久保山光男さんて、大変、実意丁寧な信心をなさる方があります。その久保山光男さんが、もう口を一文字に、それからと言うて、こう食いしぼっとるというような事じゃないですけれどもね、いわゆる、シャンとしておられるという、あの、様子を頂いたんです、久保山みつおさん。
それで、なるほど、本当に久保山光男、久保山光男、久保山光男を頂くことだ、と。久保山、言うならば、久しく保つと書いてあるですね。また、山というのは修行ということである。光男というのは、光の男ということである。もう、本当に信心は、あの、この世あの世を通して、おかげが頂けるということは光を頂き、そして、光をあの世に持って行くことだ、と。
で、この世で光を頂いとかなければ出けることではないんだ。あの世というところは、もう、暗黒の世界、魂の世界は。ね。光を持って行かなかったら、もう、どうにも出けない、うだちの上がらない魂で永劫過ごさなければならない。それを、まあ、仏教的に言うなら地獄とでも申しましょうか。ね。
そういう、例えば暗黒の世界にです、ね、光を持って行ってこそ、初めて光明世界ということが言える。もう、この世でもだけれども、あの世でも。この光を頂いて行く以外にはない。ためには、この久保山。ね。いわゆる、本気で修行させて頂くという、本気で有り難くならせて頂く信心をさせて頂くという他に、もう手はないんだ、というように頂いて、思いながら休ませて頂いたんです。
したら、今朝方、また今度は起き掛けにお声でね、久保山光男て繰り返し頂くんですよ。もう、今朝から私はいよいよ、だから、それをどう皆さんに聞いて頂こうか、表現させてもらおうかと思うて御祈念をさせてもらい、また、今朝のこの御理解を頂いたら、この21節です。
いわゆる、ね、信心なければこの世が闇と、こう言われる。ね。だから、もう実際、ならこの世でもです、やはり暗黒の世界だということが言えますですね。その証拠に皆が手探りでの生活でしょうが。ね。さあ、先のことがまってく検討も付かなければ、分からない。分かったようにしておっても、実際は分からないのが、私は今の世の中だと思うんです。ですから、信心の光を持たなければね、この世でもやはり信心の光を持たなければ、人間の幸せというのはあり得ない。
この世で信心の光を持って、初めてこの世を光明の世界という、ね、いうことになるんじゃないでしょうか。私が、まあ、例えば十色光の光を頂いておるとすんならば、その十色光だけに潤うだけの人がやはり助かるんです。ね。私がこれを百色光ともなったら、もっとその範囲は広くなるでしょう。
そこで、なら、私と同じ光を、私の信心を頂いて下さって、これがその周辺に広がって行く。いわゆる、後輪であります。光の輪がいよいよ広がりに広がって行く。それが、私どもの御用であり、神様のまた願いでもある。だから、どうでもね、光を頂かなければ駄目だということです。
それなのに、ね、自分の心、自分自身の心すら明るくすることが出けないようなことでは、おかげになるはずはありません。信心頂いておる者が、一人家の中にあるのにも関わらず、家の中がじめじめして暗かったら、貴方は信心はしよるけれども、光を頂いてないということになるのじゃないかと思う。
自分の都合のよか時はニコニコしよるけれども、ちょっと都合の悪いことがあったら、もう、クーッとし、もう光の段じゃない。だから、信心とはね、何かがあればあるほど、光は輝かなければ嘘です。何かがあるということは、言うならば心が暗くなるような、ということでしょう。そこに、信心の光が、はあ、信心頂いておるおかげで、こういう中にあっても、ね、暗い思いをせんで済むのであって、初めて信心なんです、信心の光なんです。ね。そこで、信心の光を頂くということがです、どういうことか、と。
いわゆる、信心です、信ずる心です。昨日、先日からここに修行に来ておりました、何とかちゅう教会、難しい名前書いちゃるから分からんですけど、私ようと読みきらんけど。先生が葉書きを寄越しております。とにかく、親先生という方が大変、体がお弱い方で、その、まあ、教会の御用が出来なさらない。ところが、私が合楽に修行に参っとる間に、大変元気になっておられて、御用が出来ておられた、と。
もう、これだけでも、あの、私が合楽に修行に来たということを、神様がお喜び頂いたか、ということが分かりますと、こう言うのです。これは、何とか教会ち書いちゃるけど、よく分からん。教会へ帰ってからも生き生きとして、神様を現して行くことを皆様に語らせて頂きました。
もし合楽教会での真の裏付けがなければ、自分の言葉に不信感を持っていたことと思います。今更ながら、合楽での修行を有り難いと思いますということが書いてあります。ね。いくらお道の教師で、今日ここへ座っておっても、自分の言うておることに、ね、いわゆる確信を持っての御取次が出けなかっただろうと言うのです。合楽での見たり聞いたり、本当に生きた神様の働きを目の当たりに見てきたおかげでです、御信者さん方にも、ね、生き生きと確信を持ってお伝えすることが出来ます。
その裏づけは、私が合楽に修行に行っとる間に、親先生がこんなに御用が出来なさるようになっとるじゃないですか、というわけなんです。もうすでに、私は光を持って帰ったと思うですね。ね。信ずる心です、光とは。ね。昨夜、月末の御礼信話会で、もう昨日のように有り難い信話会はなかった。
しかも、もう御祈念が終わったのがちょっと15分ばかり、ね、御取次させて頂いたから、時間がかかる。いつも9時からですけど、9時15分から。それで、いつもより10時が11時になるんですけども、もう昨日ばっかりは10時できちっと、もう、これからあんまり聞きよると、有り難く無くなりどん誰かすんなら、もういかんけん、これで止めとこうち言うてから止めたことでした。7~8名が発表しましたが、もう、一人ひとりの本当にあの、信話会というのはこれだなと言って話しました。ね。
今日、例えば信話会は特に、なら、このお広前で、ね、三十何名かの者がこう輪をかいて、そして、その、今月一月おかげを頂いて来たことを発表するわけです。だからもう、皆一人ひとりに発表したいのでしょうけれども、まあ、西岡先生の司会のもとに、まあ、一口ずつ皆さんに発表してもらった。その、まあ、4~5分ぐらいなお話ですけど、もう、本当に一月間のおかげを頂いた生粋のとこだけを皆さんが出されますからね。もう、本当に思わず拍手喝采を送りたいようなお話ばっかりでした。
もう、笑い話もなからなければ、雑談もだからなかったです。本当に親の前で、いわば親を中心にして子供達がこう集まって、ね、どうすりゃ神様が喜んで下さるか、どうすりゃ親孝行が出けるか、本当に親の前で親孝行の話し合いを子供達がしておる様を親が見たら、どんなに親の喜びだろうかと思うね。子供達がですよ、ね、本当に家のお母さんやら家のお父さんはどういうことを求めておるんだ、と親に孝行をしたい。
それを、なら、私はこう思う、私はこう思うと言うて発表し合っておるようなものですもんね。お広前で神様の前に一月間おかげを頂いて来たことを、しかも、神様に喜んで頂く信心とはと、特に昨日は皆さんが言われ、お話される中に、言葉の中に出て来たのは、おかばいを受けてるということです。
信心も出けんのに、出けたかのようにして、神様がおかばい下さって、親先生のおかばいを頂いて、こういうおかげになって来たんだというお話でした。私がこげな信心したから、こげなおかげを頂いたというのじゃないから、やっぱ有り難いのでしょうね。私はもう、こげな信心したけん、こげなおかげ頂いた。いかにも、自分が信心が出けたかのような表現じゃなくて、信心も出けんのに神様が出けたかのようにおかばいを下さってのおかげである実感を致しました、と言うのです。
中でも、椛目の宮崎さんがちょうど、この、胃の手術をなされました、その病院生活を、もう本当に実感を込めてのお話でしたが、もう本当に、もう通るとこ通らにゃ出けんのて言うたことでしたけれども、実はそん通るとこ通らんでもね、合楽では信心を分からせて頂かなければ出けんです。なら、しゃっち一遍、病気でもしてから、ね、死ぬか生きるかの目にあわにゃほんなことが分からんちゅうなら大変ですよ。
けれども、その、やっぱり通るとこは通るということは、しかし、また尊い。だからお互いがね、通るところを通らせて頂く時の心得、心構えが大事だということです。ね。繁雄さんの素晴らしいお話が発表されました。今晩もこちらに通うて来る道々、あの、土居から大橋へかけて、もうここは誰も通りがないという道なんです。早道をして、こう行くんです。もう、田んぼには今、ちょうど(はや物?)の稲が白い花をつけておる中を、まあ、おぼろ月夜の中に、その自転車で合楽に通うて見えるまでの話をなさいました。ね。
本当に、もう、何とも言えん天地の親神様のご恩恵の中に、こうやって日々合楽通うをさせて頂いておるが、しかも、今月は、ね、先月は太くならせて頂き、ね、いよいよ今月は豊かにと言うて、親先生、信心の指針を示して下さったが、はたして、どれだけ自分が豊かになっておっただろうか。
先日から頂いた御理解の中に、ね、助けるということ、助かるということ。ね。助けては頂いておるけれども、助けるという働きがどれだけ出けておるだろうか。どれほど豊かな心を頂いたであろうか。自分の信心姿勢の貧しさを色々思うて、有り難い、有り難いで合楽に着かせて頂いたという、それがもっと、こげな私の下手な話じゃないです。司会の西岡先生が、もう、本当に素晴らしい、何か(芝居?)歌うておられるようだと言うて発表されましたがね、実感ですよやはり。ね。
もう、通うて来るその道々をです、ね、そのおぼろ月夜の道を合楽に通わせて頂いておる信心の実感なんです。そして、反省なんです。ね。だから、私は本当に、あの、そういう信心が繰り返されて、いわゆる、姿勢の貧しさ、姿勢を作るということがです、まず大事だということです。ね。
宮崎さんが発表しておられましたが、ね、それは手術台でもあると同時に、ね、まさか間違うたら死刑台でもあることです。けれども、親先生、生神金光大神様を唱え続けて、手術台に上がらせて頂いたら、心が安らいだという話をしておられました。ね。そして、本当にこうして回復のおかげを頂いたならば、もう、どんなことを置いても、神様にはお喜び頂けれるお役に立たせて頂く私にならせて頂くことを、もう、真に願わせて頂いたと言っておられます。
今までの何十年間の信心は、ただおかげ、まあ、言うならばおかげ頂きたいの一念であったり、または、自分の都合のよか時だけの信心であったのだけれども、ね。もう、いよいよ、本気で神様のお喜び頂けるお役に立ちたいという一念で、いつの間にか眠りに入って、いつの間にか手術が終わって、そして、まあ、大変順調な手術を得て、あちらにおらせて頂く間も毎朝4時に起きらせて頂いて、御祈念、昼夜の御祈念。
そして、おかげの泉を繰り返し繰り返し読ませて頂いて、もう、本当に有り難い病院生活であったことを発表されました。これは、やっぱ本人でなきゃ実感が出ませんけれどね、もう、本当に聞く者をして信心っちゃ有り難いなあ、こういう死ぬか生きるかのとこを通らせて頂いて、その結果は、ただおかげ頂いて、退院して良かっただけではなくて、そういう素晴らしいものがです、自分の心の中に、信心の上に頂けて来ておるということは有り難いのです。
そこで、私は思わせて頂くんですけれども、ね、信心させて頂く者がです、自分の都合が悪いとか難儀とか、ね、まあ、言うならば、普通で言うなら心が暗くなるような時に直面した時です、ね、いよいよ、ね、日ごろの信心がものを言う。いよいよ、ファイトが湧いてくる、という信心でないならば、もう、信心の値打ちはないということです。ね。
おかげをおかげで、ただ自分の思う、いや思う以上のおかげを頂いて、やれ嬉やと言うのは、それはもう、やれ嬉やであります。ね。そこに難儀を感ずる時にです、それこそ、やれ有り難やという、ね、そういう心が頂けれる信心です。ね。そういう信心でなからなければ、私は光にならないと思うです。
今日、私は御祈念中に頂きましたのは、大祭の時にここではいつも、ソバがね、こう一台必ずお供えがありましょう。ね。ソバをこう、ピラミッド型に盛って、そして、それを麻でこう絞って。その麻で絞って、上にこう、それをきれいにしますでしょうが、きれいに立ててあるでしょうが、麻をね。その絞ったところを頂いたです。ね。ですから、これを、またそこをクルクル少しまいて、そして、上の方へこう、一つの飾りの麻が出け上がった時に初めてお三宝に乗ることが出けるんです。
括っただけでは、まだ三宝には乗せられんです。ソバというお知らせは、もう必ずおそばのお知らせを頂いたら、もうおかげが側だという時です。だから、ここではソバ饅頭なんかのお茶菓子が出ますとね、食べん人があります。はあ、アンタ馬鹿じゃなかのっち、皆が言う。ソバ饅頭を(頂きゃ?)もう、おかげが側ちゅうとに、アンタ頂かじゃこてと言うて言うくらいに、ソバのお知らせは、もうおかげが側だという時。
けれども、おかげが側と言うてもです、もう、おかげが側であればあるほど、必ず神様がそれを、いよいよおかげをやって良いか悪いかを試されるために、必ずお験しがあるということです。皆さん、今日はここんとこだけを聞いて分かって下さりゃいいんです。ね。信心の言うならばチヤホヤされる、はあ、あっちの信心はと言われる。やっぱ良い気色になる、ね。良い気色になる分なよいけれども、さあ、その次の瞬間にです、痛いとか困ったとか、それこそ心が暗くなるようなことが起こって来た時にです、ね、それを見事に合掌して受けた時、初めてお三宝に乗るのじゃないでしょうか。
もう、いよいよソバ、おかげが側だ、おかげが間近だという時に言うならば、まあ、言うならギャフンとこうやられるとしますか。そすと、クーッとしてしもうちから、信心に回れ右するようなことをする。それだから、信心が繰り返し繰り返し、光にもならなければ、力にもならんということを繰り返しておるようなことはないでしょうか。信心をさせて頂いて、教祖様も御晩年のお言葉の中に、参って来る信者氏子に、ね、信心に身が入って来ると必ず神様のお験しがありますぞと仰ったです。ね。
試して間違いない、そこに頂けるのがおかげです。ね。本当なおかげというものを神様がそう、(天払い?)に安う下さるもんですか。ね。やっても間違いがない、ね。おかげを授けても、ね、それを、いよいよおかげにして行くというところを見定めなさった時に、初めておかげ、おそばをも下さるとして、そのおそばがね、もう、ピラミッド型に盛ってある。そして、麻でこう絞ってある。
その絞ってあるところの、言うなら飾りのような、ね、いつもしてありましょう、こう、麻が上にピンと立って。ね。そうした時、初めてお三宝に乗るのです。だから、もう、おかげは側でもう、締めってある、括ってある。そこまで頂きながらです、ね、後を疎かにするようなことでは、またおかげが側のおかげを、もう、目の前にしながら、目の当たりにしながら、ね、頂き損なうといったようなことはないでしょうか。 だから、信心して一番、私は大事にしなければならないことはです、ね、信心させてもらうと、確かに有り難くなります。その有り難さが募って参ります。ね、どうにもならんほどの有り難いものが感じられたり、おかげを受けます。ね。ですから、その有り難いと言うておるのが、本当なものかどうかということを試されるのです。ね。だから、そこんところを日頃頂いておる教えを持って、はあ、神様がこの向こうにはどういうおかげを用意して頂いておるだろうか、というような、いわば心持ちでです、ね、なら繁雄さんが言われる信心の態勢、姿勢です、がきれいに出けておらなければならんということです。ね。
それを、例えば有り難しと受けた時に、初めてお三宝に乗るという。ね。私は力とか信ずる力とか、ね、光とかというのは、そういうところを超えて行く度に力が頂け、光が頂けると思います。信心なければ、世界が闇どころではありません。信心なければ、私の心が闇である。信心なければ、私の一家が闇である。
だから、まずは自分自身の心に光を頂かなければならない。そういう光を頂いておる人がです、ね、家の中に一人おったら、家の中がどういう難儀な問題が起こってもです、ね、皆が、ね、例えば主人をしとるならばです、ね、お父さんがニコニコしよるから心配いらんと、他んモンまで安心が出けます。
ところが、信心頂いとる親父が、ね、さあ、ちょいとどうかあると、もうイライラする。もう、ちょっと何かがあると、もう腹を立てる。これでは、もう、光も段じゃない、もう信心したっちゃ何んならんね、という具合にしか言わんです。ね。信心の値打ちというのは、光を頂くことです、力を頂くことです。ね。
信心とは、わが心が神に向かうと言うのです。神様へ向かって、近づいて行く、進んで行くというのが信心です。ね。大将どうしましょうかと、例えばいうようなことがあっても、ああ、おかげじゃがと、おかげになるがと、それをおかげにして行って、初めて、ね、本当、家じゃ何かがあった度におかげ頂くたいと、信心のない者まで感ずるようになります。だから、信心せにゃ馬鹿らしゅうなって来て、僕もいっちょ連れて行って下さいということになって来るのです。ね。
信心があって、何かがあった時に、信心のないモンと一緒に悔やんだり、腹立てたりしとんならば、信心の値打ちはないでしょうが。ね。だから、そういう時にです、私どもが初めの間はです、ね、いわば試されるということ。ああ、信心っちゃ有り難いということが分かって来たらです、そのお験しに言うならば落第をしてはならない。そのお試しを見事頂いて行く度に力がつくんだ、光が頂けるんだという事でございます。本気で姿勢を持ってです、合楽に通うて来るならば、ただ何日間かの修行ですらも、今のこの葉書きに書いてあるのじゃないですけれども。ね、確信を持って御取次が出けるようになった、と。ね。
そこには、いわば合楽での裏づけが帰っておったら教会にも現れておった。だから、こんなにも神様は間違いないんだ、と御取次させて頂けれるということを、まあ、葉書きに書いてありますがね。ね。いかに本気で、言うならば合楽の信心を頂こうとして、この人が来ておったかということが分かりましょう。おかげを頂きじゃない、信心を頂きに来ておったから、そういう体験が生まれておるのです。
皆さんだから、信心を頂かにゃいかん、信ずる心を頂くための修行であり、ね、本気で有り難くならせて頂くけいこであり、ね、心に光が育って行くことが楽しみの信心でなからなければなりません。ね。思うようにならないと、もう、心が暗くなるというじゃなくて、思うように、ね、言うならばお願いをして右と願って左となるという時ほど大事にしなければならない。もう、それはおかげが間近だという、いわば印なのですから、いよいよ大事にしなければいけない、ということでありますでね。どうぞ。